小説、その2「井森家の記憶」

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2020年12月のブログ記事

  • 井森家の記憶(第12回)

    第12回(12/31)  会社員の父の収入で祖父母宅の経済的援助をしていたようで、カレーは肉の代わりに竹輪だったが、戦後、間もないあの頃は近所の家々も我が家と似たりよったりの生活だったし、今日食べる物に困ることはなかった。  貧乏ながらも親は兄を幼稚園に入れたが、兄は今でいう登園拒否を起こして、ど... 続きをみる

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  • 井森家の記憶(第11回)

    第11回( 12 /29)  母の体内にいた私は、大和駅近くに貸りたお宅の離れ、物置で生まれた。  ひと部屋に父と母、兄と私の四名暮らしはすぐに終わりを告げることができた。大和駅より徒歩十分の地に大規模な県営住宅が建ち、抽選に当たり、そこに住むことができたのだ。幼かった私にはその二軒長屋の文化住宅... 続きをみる

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  • 井森家の記憶(第10回)

    第10回(12/24)  昭和二十一年、姉が三歳の時に戦地から戻った父だが、ほどなく母が懐妊し、昭和二十一年十一月に兄が生まれた。  井森家は五人から六人家族になったわけだが、それでも父と母が祖父母の家を出たのは、復員した父が同居してから三年後だったので、この三年間は何とか同居生活を持ちこたえてい... 続きをみる

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  • 井森家の記憶(第9回)

    第9回(12/22)  召集令状が来て父が戦地に赴いたのは昭和十八年、その時、姉は生後三か月だった。  日本はといえば昭和十六年に開戦し、昭和二十年に終戦となった太平洋戦争の真っただなかだった。  戦争に行った父は三年後に無事に帰国したのだが、自宅に戻れば父が留守の間、当たり前のことながら姉は三歳... 続きをみる

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  • 井森家の記憶(第8回)

    第8回(12/19)  3、大和以前  母の話ではイエスキリストではないが、私は大和市のとある宅の物置で生まれたという。食卓はリンゴ箱だった。  一月二十九日生まれの私は、厳寒のまっただなかにお産婆さんの手によりこの世に生を受けた。  その直後、大和の県営住宅の抽選に当たり、物置の暮らしから二軒長... 続きをみる

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  • 井森家の記憶(第8回)

    第8回(12/16)   父は現在は千葉に移転しているが、かつては横浜市西区にあった古河電気工業の工場に勤めていた。残業の日は会社から菓子パン二個が提供され、帰宅した父は、「はい、おみやげ」と、ジャムパン一個ずつを兄と私に寄こした。工場のにおいがしたそのジャムパンの味は、数年前にロシアに旅した時、... 続きをみる

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  • 井森家の記憶(第7回)

    第7回(12/12)  あの頃、我が家の明かりは天井から吊った電気コードに裸電球をつけたものだった。そこに細長いハエとり用の黄色い油紙がぶら下がっていた。  べたべたしたハエとり紙には、ハエたちの死骸がついていた。  風呂桶は父がどこからか調達してきたドラム缶で、蓋はドラム缶の直径に合わせて作った... 続きをみる

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  • 井森家の記憶(第6回)

    第6回(12/8)   そしてまたある夕刻、夕飯の支度をしていた母が石油コンロで天ぷらを揚げていたのだが、その最中、兄が石油コンロの上方、棚にある物がとりたくなったのだろう、傍らの椅子に足を乗せて棚にある物に手を伸ばした瞬間、バランスを崩して足先をてんぷら鍋につけてしまった。  それを側で見ていた... 続きをみる

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  • 井森家の記憶(第5回)

    第5回(12/2)  それからそのひとは時々我が家にやって来たが、いつも無言でつまらなそうな顔をして本棚にある本に目を通しては、帰った。  子供心に私は母がそのひとに気を遣っていると感じた。  大和の住宅は戦後の住宅難で、県がその地に二軒長屋を数多く建てたもので、我が家側には同じ造りの二軒長屋が八... 続きをみる

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