小説、その2「井森家の記憶」

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井森家の記憶(第6回)

第6回(12/8) 
 そしてまたある夕刻、夕飯の支度をしていた母が石油コンロで天ぷらを揚げていたのだが、その最中、兄が石油コンロの上方、棚にある物がとりたくなったのだろう、傍らの椅子に足を乗せて棚にある物に手を伸ばした瞬間、バランスを崩して足先をてんぷら鍋につけてしまった。
 それを側で見ていた私だが、母が咄嗟に、「火傷には大根おろし!」と叫んで、すった大根を熱い油がついた兄の足に塗りたくった。
 その素早い対応のおかげで兄は足に火傷のあとを残さずに済んだ。
 あの頃、我が家の煮炊きは高さ三十センチほどの石油コンロを使用しており、母は台所の床の上で石油コンロと対座していた。
 兄はひとたびこれが欲しいとなると、我慢できない癖があった。
 その兄はまたある日、母と兄と私の三人で駅前商店街のおもちゃ屋の前を通った時、ショーウインドに欲しい物を見つけたらしい、それをねだる兄に、母が、「ダメ!」と叱ると、行き成りおもちゃ屋の前で大の字になって、「買って! 買って!」と、泣き叫び続け、母がついに根負けして、兄にそれを買い与えた。
 一方、妹の私はといえば欲しい物があっても、じっと我慢する子だった。
 そんな兄だが繊細な面を持ち合わせていた。
 あの頃、我が家ではニワトリを一羽飼っており、兄と私はそのニワトリを可愛がっていたのだが、そんなある夕暮れ、遊びから戻った私は庭に漂っている生臭いにおいを感じた。
 台所に行くと、鍋のなかで肉がぐつぐつと煮えている。
 その肉はむしり取った丸出しで、あちこちに羽が残っていた。
「母さん、これ!」
 その次の瞬間、私はニワトリ小屋に走った。小屋はもぬけのからだった。
 肉の正体は聞くまでもなかった。 
 その直後、戻った兄はからになったトリ小屋、羽がついた鍋の肉を見て、目から大粒の涙を流した。
 母としてみれば卵を生まなくなった用済みのニワトリを潰して、食肉に加工したのだろうが、悲しいかな、素人の母のニワトリつぶしはあまりに下手で羽が残りすぎた。
 以後、兄は死ぬまで鶏肉を口にしなかった。私はケンタッキーの味を知らなかった兄を気の毒に思う。
  (続く、第7回)