小説、その2「井森家の記憶」

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井森家の記憶(第5回)

第5回(12/2)
 それからそのひとは時々我が家にやって来たが、いつも無言でつまらなそうな顔をして本棚にある本に目を通しては、帰った。
 子供心に私は母がそのひとに気を遣っていると感じた。
 大和の住宅は戦後の住宅難で、県がその地に二軒長屋を数多く建てたもので、我が家側には同じ造りの二軒長屋が八軒、自宅前は車一台が通れる道だが、道を隔てた向こう側にも同じ数だけ二軒長屋が建っていた。
 県営住宅に住む者たちのほとんどが子育て世代の若い家族で近所には同じ年頃の子供たちが多くいたので、町内は子供たちの遊ぶ声が響いていた。
 二歳年上の兄、正樹は落ち着きのない子供で、ちょろちょろと動きまわっており、じっとしていることがなかった。
 二軒長屋ゆえ、隣家と我が家の茶の間の境は壁ひとつ隔てただけだった。
 そんなある日、隣家から我が家に苦情が持ちこまれた。
 その苦情とは、茶の間にいる時の兄は寝転んで隣家との境の壁を足で蹴る癖があったため、兄の度重なる足の蹴りで隣家側の壁が出っ張ってしまったのだった。して、我が家の壁はといえば、凹んでいたのだった。
 兄はガキ大将で外を飛びまわっていたが、妹の私は内気で友達は近所の和子ちゃんひとりで、おとなしい子供だった。
 兄は近所の子供たちとベーゴマとメンコに夢中だった。
 長四角の空き缶に戦利品の手垢と泥で薄汚れたメンコをぎゅうぎゅうに詰めては悦に入っていた。
 またある冬の寒い日、兄は余所の畑の肥溜めに落ちてしまい、ずぶ濡れの臭い体で帰って来た。それを知った父は兄を柱に縛りつけて、烈火の如く怒って、兄をぶん殴った。
 その様子を見ていた私は、父のあまりの鬼の形相に恐怖を覚えた。
 だが、あれは父が、冬の寒い日、肥溜めで命を落としそうになった我が息子を案じて、あんなこと二度とするな! と、戒めの行為だったにちがいない。
  (続く、第6回)