小説、その2「井森家の記憶」

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井森家の記憶(第7回)

第7回(12/12)
 あの頃、我が家の明かりは天井から吊った電気コードに裸電球をつけたものだった。そこに細長いハエとり用の黄色い油紙がぶら下がっていた。
 べたべたしたハエとり紙には、ハエたちの死骸がついていた。
 風呂桶は父がどこからか調達してきたドラム缶で、蓋はドラム缶の直径に合わせて作った丸い板だった。
 湯に浸かる際は、浮かんでいる丸い板の上に乗った。すると、板がひとの重みで沈んで浴槽の底となった。
 もしドラム缶風呂にぷかぷかと浮かんでいるその丸い板を蓋と勘違いして、取って湯に入ったら、底はドラム缶で熱くなっているので、足の裏に火傷を負う羽目となる。
 あの頃、内風呂がある家は珍しく、大方の人たちは銭湯通いをしていたが、大の銭湯嫌いの父が、「他人が入る湯は嫌だ!」と、自分でドラム缶風呂を作った。
 風呂を炊く燃料として、近くの山林で拾う松ぼっくりが重宝した。
 南に六畳、北に四畳半の和室ふた間だったが、北の部屋は寒くてほとんど使用せず、机と椅子と小さな本棚がひとつあるだけだった。
 南の六畳は茶の間兼寝室で、丸いちゃぶ台で食事をしたあとは脚を折って、そこに布団を敷いた。
 大正六年生まれの父、大正八年生まれの母、昭和二十一年生まれの兄、昭和二十四年生まれの私、四人家族だったあの大和時代、どの家も貧しく、人々は毎日を懸命に生きていた、と、思う。
 その頃、家にはもちろんテレビはなく、室内に流れる音はラジオのみだった。
   (続く、第8回)