小説、その2「井森家の記憶」

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井森家の記憶(第20回)

第20回(1/26)
 父は甘い物を好まなかったうえに歯質が良かったのだろう、八十四歳で没するまで虫歯が一本もなかった。
 それにしても井森家の面々は口が悪かった、ことに家族間では遠慮なく、自分が思った通りを口にしたため、言われた方はむっとしてただちに言い返した。
 母の晩年は寝たきりだったが、ある日、我が家から二時間もかけて病院に行った私に、ベッドの母がこう言った。
「おまえ、ばばあになったねぇー」
 その台詞に一瞬むかついた私だったが、相手は老いた病人、ここは許そう、と、怒りの台詞をぐっと飲みこんだ。
 母はこれを言ったら相手がどう思うかを考えもせず、思ったことを口に出す癖があった。だが、要するに母は正直者だったわけで、けして悪気はなく、娘の私からすれば、憎めない存在だったことは確かだった。
 井森家はほがらかでおしゃべりな母を中心にまわっていた。


 ところで、ここらで母から聞いた、両親が祖父母の家を出る時の様子を記してみようと思う。
 そのことを書くのは、ある日、五十も過ぎた姉がまだ元気だった母に、「なぜ、あの時、あたしを連れてってくれなかったの!?」と、恨みがましい目で問いたからだ。
 その問いに、母はこう答えた。
「だって、あの時、おまえはおばあちゃんの後ろに隠れて、あたし、行かない! ここに残る! おじいちゃんとおばあちゃんと暮らす! と、こっちにおいで、と、誘った母さんにはっきり言ったじゃないか!」
 父が三年間戦地にいた間、自宅に残ったのは祖父母と母と姉だった。
 初孫の姉を溺愛していた祖父母は、仲たがいして家を出ていく父と母に姉を渡さなかった。
 玄関の祖父は、「年寄りを置いてく気か! 出ていくなら、出ていけ!」と、臨月の母の腹を蹴ったとか。
 その騒動時、まだ七歳だった姉にしてみれば、何が起きたのかまったくわからず、思わず口から、「あたしはここに残る!」と、発したのだろう。
 祖父母の家に残された姉は、
「なぜ、あの時、あたしを連れてってくれなかったの?!と、生涯、「親に捨てられた」感が抜けなかったらしい。
  (続く、第21回)