小説、その2「井森家の記憶」

よろしかったら、読んでください

古希の三人娘(第5回)

第5回(11/9)
 会社員時代の夫は、朝早く家を出て、帰宅は大概午後十時をまわっていた。それも酒に酔っての帰宅だったので、春子は夫に家庭のこと、近所付き合いのこと、などを相談しても、夫が真剣に耳を傾けてくれそうもないので、いつのまにか夫に家庭のことを話すことをやめるようになっていた。
 会社員時代の夫は、朝は、お腹が空かないから、と、自宅で朝ご飯を食べず、出勤途中で立ち食いそばなどを食し、夜は夜で外で食べて飲んでくる日がほとんどだったので、自宅で家族揃って夕ご飯を囲むことはまずなかった。
 夫が会社員時代の我が家は母子家庭だったので、余所の家の御主人が早く帰宅して、家族揃って食卓を囲む話を聞くと、ほのぼのとした家庭はいいな、と、思った。
 その点、明枝の家庭は夫がマイホームパパで、午後七時には帰宅したので、夕ご飯は家族揃って食卓を囲んだという。
 明枝の夫は資産家の三男で、明枝たちが結婚する際、夫の親が新婚夫婦が住む土地と新築の家を提供してくれた。
 明枝はその新居に、夏央と富由美と春子を招待してくれたのだが、百坪の土地に建つ五LDKのイギリス風の二階家は、正しく幸せの象徴に思えた。
 明枝の義父母は、そのうえ生活費の足しに、と、毎月、かなりの額を明枝名義の貯金通帳に振り込み続けてくれたという。
 結婚した明枝は経済的にも何不自由のない生活を送っていた。
 その明枝に比べれば、春子たちは互いに貯金がゼロで、双方の親からの援助はまったくなしで、結婚生活はゼロからの出発だった。
 春子の新婚生活は二DKの社宅、家賃一万円から始まった。
 夫の昭夫は仕事熱心で、会社では仕事の鬼と言われたらしいが、共に暮らす春子にしてみれば、家に戻った夫はもぬけの殻で、子供の面倒をみるわけでもなく、家事をするわけでもないので、晴子は新婚三カ月目から早くも亭主は達者で留守がいい、という心境に達していた。
 要するに、現役時代の夫の昭夫は働いて稼いで、お金を運んでくれる存在であればよかったので、それ以上のこと、家族団らんとか、買い物に一緒に行って、重い荷物を持ってほしい、とかを、まったく期待しなかった。
 ところが、昭夫は仕事を辞めたとたん、一日中、家にいるようになって、一日の三食を家で食べるようになった。
 友達もなく、趣味もなく、行く所もなく、やることもなく、で、終始、つまらない顔をして、家のど真ん中、リビングのソファーに座って、テレビばかり見ている。
 テレビばかりみている昭夫の話題は、テレビのなかの話ばかりで、やれアイドル歌手が結婚したの、イケメン俳優が離婚したのだの、で、春子はそんな昭夫を、芸能博士と悪たれる。
 現役時代は家であまり話さなかった昭夫だが、無職になってからは、ひとと会って、話す機会がなくなったせいか、春子が近くにいようものなら、テレビで得た知識をさも自分の知識のようにして長々と説明してよこすので、その話に興味がない春子にしてみれば、たまったものではない。
 もし昭夫が大学教授か作家なら、下手な説明にも耳を貸すかもしれないが、自分に興味のない話など聞きたくもないので、説明が始まったら、早々に昭夫から離れるようにしている。
       (続く、第6回)