小説、その2「井森家の記憶」

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井森家の記憶(第4回)

「大和の暮らし」
第4回(11/29)
 神奈川県大和市で生を受けた私は、そこで小学一年生まで両親と兄と私、4人家族で平和に暮らした。
 大和の住居は県営住宅の平屋の二軒長屋で、敷地は四十坪と広かった。間取りは南向きの六畳の和室、北向きの四畳半の和室、二畳の台所に風呂場だった。
 日当たりいい庭は、秋は菊の花が目を楽しませてくれた。
 引き戸の玄関の傍らにはイチジクの木が植えてあり、兄はイチジクが好きでよく実をとっては口に放りこんでいた。
 大和に住んでいた頃、父と母は喧嘩をすることもなく、日々が穏やかに過ぎていた。
 その四人家族の家に時折訪れるひとがいた。そのひとは姉の真由子だったのだが、幼い私は大和にいる間はそのひとが誰だかわからなかった。
 そのひとは笑顔も見せず、口も利かず、ただ黙って本棚から本を手にとって部屋の隅に座って、体を壁にもたせかけて本を読んでは帰って行った。
 そんなある夕方、母におんぶされた私は、そのひとを大和駅まで送っていったのだが、駅前の商店街を通った時、母はつとおもちゃ屋に寄って、大きなキューピー人形を買って、そのひとの手に持たせようとした。
 が、そのひとは目で、「そんな物欲しくない」と、突き返したのだが、母が無理やりそのひとにキューピー人形を持たせた。
 母の背中にいる私は、そのかわいい丸い目をしたセルロイドのキューピー人形が喉から手が出るほど欲しかったのだが、子供心に母が自分には買ってくれないのだ、と、察して我慢した。
 そのひとが駅の雑踏のなかに消えたその時、私は生まれて初めてここにいる自分を意識した。その時、私は三歳だった。
 (続く、第5回)