小説、その2「井森家の記憶」

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古希の三人娘(第52回)

第52回(6/14)
 アクリル板とフェイスシールドとマスクで春子と仕切られた真央がぽつぽつと口をきき始めた。
 今日の真央は小声で静かな口調で話す。
 コロナ禍の今、ひとと話す際は、飛沫を飛ばさないように小声で静かに、が、国の定めである。
「緊急事態宣言以来、ひとり暮らしの身では、誰とも会えず、で、寂しいのを通り越してる毎日よ」
「そぉー、よ、ねぇー」
 春子は頷いた。
「まったくもって、コロナって奴は、高齢者となったあたしの楽しみのほとんどを奪ってる」
 真央は口を尖らして、人類初の流行り病を怒った。
 今年の二月上旬、春子夫婦はバスツアーで千葉の成田山を参拝した。その月の下旬には姉の一周忌で横浜に行き、中華街で会食したのだが、その頃、日本は横浜港に停泊している豪華客船、ダイヤモンドプリンセス号からコロナ感染者が発生した、と、大騒ぎをしていた。
 まさか、その直後から日本、いや、世界にコロナ感染者が爆発的に増え続けることになろうとは、あの時は露ほども思っていなかった。
 あれから四カ月、この間、春子は新型コロナウイルスとは?感染者の症状とは? と、テレビの報道番組をみては、気持ちを沈ませていた。
 真央はひとり暮らしが寂しいらしいが、自宅で夫の昭夫と老夫婦ふたりで過ごす日々はたまったものじゃない。
 昭夫の唯一の外出先、日帰り温泉が緊急事態宣言によって休業となってしまったし、春子自身も唯一の外出先、スーパーはコロナ感染が怖くて、必要な物さえ買えば、そそくさと自宅に戻るようになっている。
 自宅に戻れば、家のど真ん中のリビングには、いかにもおもしろくないという仏頂面をした昭夫がいる。
 老夫がそうなら、老妻の方もかなりのしかめっ面で老夫に接しているにちがいない。
 春子は基本的には家事をしたくないのだが、生きるために仕方なく家事をやっている。
      (続く、第53回)