小説、その2「井森家の記憶」

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古希の三人娘(第35回)

第35回(1/25)
「次回の江戸歩きの会には参加できますか?」
「はい、参加できます」
「あぁー、よかったぁー。みなさん、伊吹さんがいない江戸歩きの会はつまらないと嘆いてますから」
「そぉーですか、僕のような者でもこの世で、少しは存在価値がありますか」
「存在価値、大ありですよ。江戸歩きの会は、伊吹さんでもってるようなものですから」
「光栄です」
「では、次回、お会いできる日を楽しみにしております」
「こちらこそ」
「それでは、失礼いたします」
 電話を切った富由美は、全身が踊っている。少しの時間でも、伊吹と話したあとは胸が弾む。
 結婚未経験の富由美だが、この年まで男を知らないわけではない。若い日には結婚を約束した男がいたのだが、彼は結婚式直前に肺ガンが発覚して、わずか三カ月の闘病でこの世を去った。
 彼の臨終の席で富由美は、あたしも一緒に死ぬ! と、泣きわめいた。
 あれから富由美は何人かの男と関係を持ったのだが、彼ほど夢中になれる男とは出会えなかった。だが今、富由美は伊吹という男に胸のときめきを覚えている。伊吹の方も富由美に電話をよこすのだから、あながち富由美が嫌いではないだろう。
 実際、江戸歩きの会で伊吹に会った日の富由美はスキップしたいほど、この世がバラ色になる。
 古希のひとり暮らしはともすれば日々が灰色となってしまう。
 特に真冬の雨の日などは、襲われる寂しさに途方に暮れてしまう。
 その寂しさを埋めるために、ある時期、犬か猫を飼おうと思ったことがあったが、今の犬と猫は環境と栄養状態が良いせいか、二十年も生きるとかで、自分の年を考えると、この先、犬や猫を最後の最期まで世話をする自信がない。
 ペットはひとたび飼ったからには最期まで責任を持って世話をするのが飼い主の務めだろう。
 犬と猫の代わりに伊吹では、彼に失礼かもしれないが、今更、男と女の深い関係はありえないので、時々会って、夫婦気どりでどこかに遊びに行くのは有りかもしれない。
  (続く、第36回)