小説、その2「井森家の記憶」

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古希の三人娘(第34回)

第34回(1/23) 
 真央と別れた富由美は、結婚未経験の自分は子供も孫もいないのが寂しいといえば寂しいかもしれないが、ずっとこうして生きてきたわけだから、今更、寂しい、寂しい、と、泣き叫んでも誰も振り向いてくれるわけでもなしで、ならば、寂しさと共存していくしかない、と、思う。
 それにしても、子供がいることは何と厄介なことだろう、と、真央の話を聞いたあとで思う。
 親はひとたび親となったら死ぬその時まで親業から卒業できない。
 その点、自分はふた親は他界、子供もいず、従って孫もいないので、我が身のことだけを考えていればいいのであって、生きようが、死のうが、わたしの勝手なので、お気楽な身の上である。
 経済的には親が残してくれた家屋に住んでいるし、看護師として定年まで勤めたので、退職金はもらったし、暮らしていけるだけの年金は支給されているし、で、お金の心配はまったくない。
 あとはこれから先、死に至るまでの我が人生だが、あれこれ考えてもたぶん自分の思い通りにはいかないだろうから、考えても仕方がない考えはしないようにするしかない。
 家事は共に暮らしていた母親が老いてなお達者だったので、母親に任せていたので、富由美の家事能力は定年退職後のじいさん並みだが、朝食はパン、昼食はめん類、夕食は宅配弁当で、掃除は月に二回、専門の業者に頼んでいる。
 今はほとんどの家事がお金さえあれば解決できるので、富由美のような家事能力欠如者には有難い時代となっている。
 と、その時、携帯電話が着信音を鳴らした。
 画面を覗くと、伊吹だった。伊吹は数年前に妻を亡くして、ひとり暮らしをしている。
「もしもし、今、よろしいでしょうか?」
「いいですが」
 伊吹は七十二歳のじいさんだが、そこらに転がっている薄汚い頑固じいさんとは大違いで、ダンダィーで気持ちが若くて、未だに少年のような目を持っている。
 富由美は自宅の茶の間で日本茶を啜っている最中だった。
「あれから四国のお袋が亡くなりましてねぇー、葬儀やら何やらで忙しい日々を送ってました。そんなわけで江戸歩きの会はご無沙汰してしまいました」
「まぁー、そぉーなんですか。とにもかくにも、お電話で失礼ながら、お母さまのご冥福をお祈り申し上げます」
「ありがとうございます。お袋、百歳でしたから、大往生ですよ」
「でも、いくつになっても、親を亡くすということは寂しいもので」
「はい、寂しいものです」
 寂しいを口にした伊吹の声が沈んでいた。 
     (続く、第35回)