小説、その2「井森家の記憶」

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古希の三人娘(第31回)

第31回(1/14) 
 悠太と孫の後ろ姿に目を細めていたその時、突然、四歳の孫が悠太の手を離れて走り始めた。
 目の前が公園だから、悠太がここまで来れば、と、手を離したのだろう、と、思った次の瞬間、孫の体が前のめりになって、両手と両膝を地面について、転んだ。
 孫は一瞬我が身に何が起こったのか解せないようだったが、次の瞬間、目が我がてのひらに滲む血を捕らえて、けたたましい声で泣き始めた。
「大丈夫よ、痛くなぁーい、痛くなぁーい、痛いの、痛いの、飛んでいけぇーっ!」
 すり寄った真央が慰めの言葉をかけたのだが、孫は、「ママぁー、ママぁー!」と必死の形相で母親を呼び始めた。
「ほんのちょっと目を離した隙にだよ、でも、たいしたことなくて、よかった、よかった」
 悠太が孫を抱こうと両手を差し伸べたが、孫はその手を払いのけて、「ママぁー、ママぁー」と、母親を呼び続ける。その声が辺り一面に響き渡る。
「ほんと、たいしたことなくて、よかった、よかった」
 真央が孫が腰を落として傷の具合を細かくみると、両の膝もすりむき傷ができており、血が滲んでいた。
 その間も孫は泣き続けて、「ママっ! ママっ!」と、母親を呼び続けている。
 道行く人たちが、そんな真央たちに怪訝な目を向けながら、通り過ぎていく。
「オレたちではどうにもならない、ママを呼ぶ」
 悠太が上着のポケットから携帯電話を取り出して、嫁に助け船を請う。
「オレだよ、オレ、いや、たいしたことないんだけどね、裕介が転んでね、大泣きしてるのよ、オレじゃあー、手に負えない、泣き止まねぇー、申し訳ないけど、今すぐ、来てくれない? あぁー、いつもの公園、オレ、公園がすぐそこになったんで、つい油断して手を離してしまった、悪いのはオレだ、とにかく、早急に頼むよ」
 悠太が電話の向こうの嫁にしきりに頭を下げている。ひたすら嫁に謝る息子を見る真央は、今の時代、いいのか、悪いのか、男が弱くなり、女が強くなった、と、思う。
  (続く、第32回)