小説、その2「井森家の記憶」

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井森家の記憶(第76回)

(第76回 8/9)
 婿養子の父だったが、井森家での父は絶大なる権力の持ち主だった。
 父は自分に逆らう家族の者たちには手厳しく向きあった。
 ある時、父に激しく口答えした母は父に殴られて、顔面に青あざを作った。数日間、お岩さんの面相で過ごした。
 が、母は気持ちの切り替えが早かった。父の顔を見なければならない自宅からしばし離れて、ひとりで外出した。さっぱりした顔で帰宅した後はいつものように家族のために食事の用意をした。
 外を歩けば心が晴れる。外出中は煩わしい家族、雑多な家事から解放されて、胸中からもやもやしたものが飛んでいく。
 父と母は冠婚葬祭以外は連れ立って外を歩くことはなかった。
 母の息抜きは昼間の三、四時間、ひとりであちこちをぶらぶら歩いて買い物することだった。行きは徒歩かバスか電車で、帰りは両手に持てないほどの買い物をするのが常だったので、タクシーを利用した。
 タクシーから下りるのは、家族や近所の目を気にして、自宅から三分ほど離れた所だった。
 買い物のほとんどが食料品だったが、時には自分の服やバッグなどを買っていたようだった。
 値の張る物や家電や家具など、父の目に留まる物を買うと、父が目をむいて怒るので、父にわからない自分の服などを買い物バッグに忍ばせていたようだった。
 その母の血を受け継いでいる私も、ひとりで買い物をするのが好きで、時には自分のの服を買って、心の憂さを晴らしている。
      (続く、第77回)