小説、その2「井森家の記憶」

よろしかったら、読んでください

井森家の記憶(第49回)

第49回(5/4)
 兄嫁の葬儀は盛大だった。喪主の兄、姉夫婦、私たち夫婦、その時は健在だった兄嫁の弟、兄夫婦の知り合いなどで、弔問者は200名ほどだった。
 自宅風呂場で溺死した兄嫁は不審死だったため、救急車で病院に運ばれた後、警察で解剖となった。階段で転落死した兄嫁の弟も不審死だったので解剖となった。
 兄嫁の死からわずか五か月後にひとり暮らしの兄嫁の弟も事故死したのは兄嫁が呼んだとしか思えない。
 兄嫁と彼女の弟は事故死だったのだが、振り返れば、兄嫁の父親も若い日に会社で事故死した、と、聞いている。
 生きている者は必ずや死を迎えるのだが、兄嫁とその弟が揃って事故死なら、井森家の姉と兄は揃って肺がんで命を落とした。
 私が卵巣がんになるまでの井森家は、がんになった者はひとりもいなかった。がん家系ではなかった。
 直接の死因は肺がんだった姉だが、六十五歳の時に血糖値が400となった以降、糖尿病の持病持ちだった。が、最後の最期まで自営の会社、専務としての仕事をこなした。
 死の三年前には三階建ての自宅を新築したのだから、まだまだこの世で生きる意欲があったのだろう。
 糖尿病を長患いした姉に、合併症を案じた私だったが、最後は腎不全となって、死の三か月前から人工透析のお世話になっていた。
 腎不全といえば、姉は中学時代に腎臓病を患っており、一か月間ほど相模原の国立病院に入院した。夏の暑い日、母とともに私は姉を見舞いに行ったのだが、母は、「腎臓にはスイカがいい」と、病室にスイカを持参した。
 母は父のベーチェット病では病室にイチゴ持参で、父を失明から救ったし、姉の腎臓病ではスイカで救ったのだった。
 と、なると、母は井森家の者たちにとっての救世主だったかもしれない。
 (続く、第50回)