小説、その2「井森家の記憶」

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井森家の記憶(第36回)

第36回(3/23)
 内面がめっぽう悪かった父だが、勤め先の会社では労働組合の委員長として、横浜工場の敷地内に体育館を建設することに奔走し、父の努力によって体育館が完成した。
 また政治が好きで、社会党を支持し、選挙の際には隣近所の者たちを我が家に集めて、立候補した社会党議員が我が家で演説した。
 家族の前では苦虫を噛み潰したような顔でにこりともしなかった父だが、外面は良く、ひとの面倒見がよかったらしい。 
 父が生まれて育った所は、山梨県の山のまた山の奥、秋山村だった。
 父の一番の楽しみは一年に一回、五月のゴールデンウィークの時、父の兄夫婦が跡を継いでいる生家がある秋山村に帰省しながら、その近辺に住んでいる兄弟たちと会うことだったらしい。
 父は六人兄弟で、上から二番目の次男だった。
 父が勤めていた古河電工の五月のゴールデンウィークはカレンダー通りの飛び石休日ではなく、一日から五日まで連続して五日間の休みだった。
 小学生だった兄と私は、五月のゴールデンウィークの時、登校する日を一日か二日休んで、父に連れられて山梨県の父の生家を訪ねたことがあった。
 今でこそ、横浜から秋山村へは車なら中央高速を利用すれば日帰りが可能となったが、あの頃、秋山村への帰省は、行きに二日、帰りに二日間を要した。
 まず、横浜から横浜線で八王子まで、八王子から中央本線で大月まで、大月からは富士急行で禾生(かせい)まで、禾生からは一日に二本しかないバスで秋山村まで、だった。
(続く、第37回)