小説、その2「井森家の記憶」

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井森家の記憶(第35回)

第35回(3/21)
 母は、時、所、相手かまわず、思ったことをその場で口に出さずにはいられない癖があった。が、私からみればかわいげがあって、憎めないひとだった。
 その母は父の悪口を私に耳にタコが出来るほど聞かせた。そのことにより私の脳内は、母は良い人、父は悪い人が刻みこまれた。
 父は坊主頭で、会社の行き帰りこそ頭にハット、背広姿だったが、自宅での父は一度としてシャツにズボンという洋服姿でいた試しがなく、寝巻き風の着物姿だった。
 茶の間は四畳半で、真ん中に掘りごたつがあった。
 父のモットーは質素倹約だった。食い道楽も着道楽も旅道楽もなかった。自宅にいる限りは茶の間で横になってテレビをみていた。休みの日は古くなった自宅のあちこちの修理か、庭の片隅の菜園で野菜作りをしていた。
 母が食料品と日々の生活に必要な物は買っていたが、高額な買い物は父がしていたから、井森家の大本の財布は父が握っていたのだろう。
 値が張る電化製品は、父が気に入った近所の電気店に出向いて購入した。
 給料日は二十五日だった。その日は普段手ぶらで帰宅する父が土産を手に帰ってきた。
 土産は高価な果物だったり、高級菓子だったりした。
 十二月二十五日のクリスマスにデコレーションケーキを求めるのは、父の役目だった。
 七人家族だったので、デコレーションケーキを七つに切るのが難しかったが、ひとり分のデザートにはちょうどいい量だった。
 自宅での父の居場所は茶の間、テレビの前で、食事時と来客時は起き上がって座るのだが、それ以外はテレビに目をやりながら仰向けに横たわっていた。
 茶の間の父はいつも気難しい顔をしており、家族の動向に目を光らせているようで、怖い存在だった。
 茶の間で家族の誰かが大きな声で話すと、「うるさいっ!」と、怒鳴りつけた。
(続く、第36回)