小説、その2「井森家の記憶」

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古希の三人娘(第7回)


第7回(11/15)
 翌朝、夫の昭夫に元気がない。
「朝ご飯は食べない、もう少し横になってる」
 トイレから出てきた昭夫が力なく言った。
 昭夫は元々食が細いうえに、痩せ体質でいくら食べても太らず、食べないと痩せる。
 春子はといえばその反対で、食べれば太り、食べなくとも痩せない。
「また、下血?」
「そぉー、でも、今度の下血は量が少ない、食べないで様子をみるから」
また下血を感じて問うた春子に昭夫が答えた。
「そぉー、なの」
 春子がそこで黙ったのは、ここで春子が、「病院に行くように」と、昭夫にわいわい言っても、昭夫はひとの言うことなど聞かないことが始めからわかっているので、妻の春子としては、昭夫が、「もぉー、だめだ、病院に行く」と、訴えてくるまで、様子をみてるしかない。
 昭夫は六十歳で定年になった直後、安静時の脈拍が百五十にもなって、医師に、「心房細動です。血栓ができやすいので、できた血栓が脳に飛べば脳梗塞、心臓に飛べば心筋梗塞を起こします」と、診断され、以後は血栓予防のために、血液をさらさらにする薬を飲み続けているのだが、その薬を飲み続けて十六年になるのだが、その薬には副作用があり、昭夫の場合は腸にこぶができて、そのこぶが数年に一度前触れもなく破れて下血となってしまう。
 ひとたび下血が始まったら、素人では下血を止められないので、病院に行って、一週間ほど入院して治してもらうしか方法がない。だが、その時、すぐに病院に行かないでいたら、二年前の今頃のようになってしまうのではないか、という恐怖が春子にはある。
 二年前のあの日、昭夫は下血が始まっても病院に行かなかった。その結果、自宅トイレの前で動けなくなってしまい、その時、初めて晴子にSOSを発した。
(続く、第8回)