小説、その2「井森家の記憶」

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井森家の記憶(第82回)

第82回(8/31)
 夏ではないが、家族揃っての外出がまれの井森家だったが、東京見物に出掛けたことがあった。
 東京の地をよく知らない父だったので、電車が私たちを目的地近くの駅まで運んだ後は、タクシーを利用して東京見物をした。
 東京見物で最も印象に残った場所は、交通博物館だった。実物そっくりのジオラマには目を見張った。小さな世界のなかに山や川や町があり、トンネルをくぐって走る電車あり、で、いつまでも見ていたい所だった。
 皇室専用車を見た時は、一度でいいからこんな豪華絢爛たる電車に乗ってみたい、と、上流社会に住む人々を羨ましく思った。
 井森家では家族揃っての泊まりの旅は一度もなかったが、日帰りの旅は年に一、二回はあった。
 家族揃っての外食も父が外での食事を毛嫌いしたので、一度もなかった。
 近所の友達、ターちゃんが、「夕飯、家族みんなで駅前の中華そば屋にラーメンを食べに行くんだ」と、言った時は、指をくわえた。 
 外食はしなかったが、時には出前で駅前の中華そば屋に家族分のラーメンを頼んだ。店のラーメンを食べられる嬉しさで、私は届いてもすぐに口にせず、スープで嵩を増やした後にラーメンをすすった。
 来客には出前の天丼やかつ丼でもてなすのが常だった。
 井森家にはお茶うけの高級菓子が常備してなかったので、坂の下の菓子屋まで走って買いに行く役は私だった。
 客がいる茶の間と台所の境は障子だったので、台所にいる私は障子の穴から客の前にある高級菓子を物欲しそうに見ていた。
 そして、客が帰った後、母が客が手をつけなかった高級菓子をよこすのだった。
 父は外面が滅法良かったので、客の前では常日頃の仏頂面と怒鳴り口調を消して、笑みを浮かべた穏やかなひとになっていた。 
    (続く、第83回)