小説、その2「井森家の記憶」

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古希の三人娘(第12回)

第12回(11/27) 
「もしもし、伊吹ですが、夜、遅い時間に電話して申し訳ありません。今、大丈夫ですか?」
 時計の針は午後十時を指していた。
「いいですが、何か?」
 富由美はこんな遅い時間に電話をよこしてくるだから、よほどの用事かと身構えた。
 もしやプロポーズかもしれない、だが、富由美はずっと独身できたので、今更、男と暮らす気なんぞまったくない。
「実は、四国のお袋の具合が急に悪くなりましてね、急遽明日の飛行機で四国に発つことになりましてね、ですので、明後日の江戸歩き会に参加できなくなりました。申し訳ありませんが、富由美さんからみなさんにその旨を伝えていただきたいのですが」
「まぁー、そぉー、なんですか」
 富由美は自分に差しさわりがない話だったので、安心した。
「明後日、伊吹さんとお会いできるのを楽しみにしてたのに、残念ですが、よぉーく、わかりました、くれぐれも、道中、お気をつけて」
「はい、どうもありがとうございます」
 伊吹からの電話は用件のみだった。
 富由美は伊吹から、「お袋、百歳なんですが、郷里で元気に暮らしてます」という話は聞いていた。
 伊吹の母親は伊吹の兄一家と同居しているという。
 富由美は伊吹とフィーリングが合う。月に一度の江戸歩きの会で伊吹と話せるのを楽しみにしている。
 伊吹は七十二歳のじいさんだがそこらに転がっている薄汚い頑固じいさんとは大違いで、ダンディーで気持ちが若くて、未だに少年のような目を持っている。
 伊吹は趣味で時代小説を書いており、書き上げた作品をどこかの賞に応募している。二次選考までは通過するが、その先まではいかないらしい。
「僕は、ボケ防止で時代小説を書いてます」
 そう語る伊吹は、江戸歩きの会では、豊富な知識で会の中心人物となっている。
 富由美が江戸歩きの会に入った動機は、仲間たちとウォーキングしたあとに食事会があるからだった。
 六十五歳で定年退職した富由美は、長い年月の間、職場という行き先があったのに、仕事を辞めたとたん、行き先がなくなってしまい、それはとても寂しくて退屈なことだったので、あちこちのサークルに首をつっこんだのだが、今現在は月に一度の江戸歩きの会と週に三日のスポーツクラブ通いで、寂しくて退屈な日々から解き放たれている。
      (続く、第13回)