小説、その2「井森家の記憶」

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井森家の記憶(第42回)

(7)井森家の者たちの病気
第42回(4/14)
 父は八十二歳まで姉の会社で働いて、八十四歳で他界した。
 最後は肺炎と脳梗塞と腎不全みっつの病気を同時発症し、救急車で三ツ境の聖マリアンナ病院に運ばれて、三週間を人工呼吸器をつけた状態で集中治療室で過ごした末に息を引きとった。
 八十過ぎまで生きた父だったが、五十歳の時に膠原病の一種、ベーチェット病になって、いちじは失明の危機に襲われたが、母が懸命に目にいいというイチゴを食べさせたせいか、失明を逃れられた。
 あの時、父の病状は口のなかが口内炎だらけで、私が見舞った時は、唾を飲みこむと痛いので飲みこめず、唾液を受け皿に垂らしていた。陰部にも潰瘍ができていたらしい。
 また、四十代の頃は結核に罹患した。が、少し前までの結核は不治の病だったが、医学の進歩によって抗結核薬パスという薬が出来たので、父はパスを飲みつつ、午後八時には就寝という規則正しい生活をしながら、会社は休むことなく勤め続けた。
 父の死因は多臓器不全だったが、その原因は五十歳の時にかかったベーチェット病が、八十四歳で発症した病気が引き金となって、死に至ったらしい。
 十一月末に倒れた父の引き出しには、その年に投函する気だった年賀状が数十数仕舞ってあったから、倒れるまでの父は、まさか自分が死ぬとは夢にも思わず、年賀状が発売になったので、徒歩十分の郵便局まで買いに行ったのだろう。
 最後まで歩けた父だったが、どうやら十一月の寒い日に風邪をひいたのがいけなかったのかもしれない。
 年寄りにとって風邪が命取りになる場合があるが、無類のしっかり者だった父は、「オレは百二十歳まで生きる」と、言っていたし、ひとを頼るのが大嫌いだったので、周囲の者たちは、あの父なら大丈夫、最後の最期まで頑張って生きるだろう、と、思いこんでいた。
 その父が、まさかある日突然、倒れるとは! だった。
 父の死はたぶん本人も予想していなかっただろう。
 死の一か月前の年賀状の準備といい、そしてまた、死の半年前には、まだまだこの家で暮らす、と、自宅の屋根を六十万円をかけて修繕していたのだった。
(続く、第43回)